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(2)「繊月酒造」、その自社杜氏の系譜

父と話していて、初めて知ったのですが、「繊月酒造」では初代からずっと、この100年もの間、自社杜氏で通していたんです。杜氏さんを社員として遇して焼酎造りを行っていただくことを創業以来続けてきました。なぜこれが珍しいことかというのは、詳しい焼酎ファンの方ならご存じですよね。

焼酎蔵の多くは、鹿児島県の黒瀬や笠沙に住んでいらした杜氏集団から、仕込みの時期だけ杜氏らを招聘していました。でも、白色革命といわれた甲類焼酎全盛の頃からその後は、本格焼酎の蔵元さんの多くが自ら杜氏を務めることが増えたと聞きます。

「繊月酒造」では、蔵の誕生以来、ずっと専任の杜氏さんに焼酎造りをお任せし、現在では6代を重ねているのです。それはなぜでしょうか? その理由について、杜氏は「初代が生みだし、諸先輩方が育ててきたこの蔵の味を、代々守り、そしてさらに磨きを掛けるためだからです」と静かに語ってくれました。

時代とともに、飲まれる方の嗜好も変化されるのはたしかです。また蔵元としてその変化に対応することも必要ではあります。でも、「蔵の個性や持ち味という「柱」はしっかりと守っていく。そのためには、社員として杜氏を遇し焼酎造りに専念していただく必要がある。本格焼酎、そして球磨焼酎は、ひとつの文化だからね」と、父はいいます。




ではここで、歴代の杜氏をご紹介しましょう。


■初代 横井宇作

明治10年に生まれた初代横井杜氏。明治36年に入社され、昭和5年に退社されたそうです。わたしはもちろん、父もどういう方だったか存じてはいません。でも、「繊月酒造」の焼酎造りの先鞭をつけていただいた方です。その味は、100年を経た今もしっかりと守られているのです。


■二代 大瀬甚蔵
明治24年生まれ。入社は明治45年、退社は昭和19年。5代目の越冨杜氏は「大瀬さんは、杜氏らしい威厳のある顔をしている」といいます。父が物心ついた頃には、すでに大瀬杜氏は退社されていました。
しかし父がかつて聞いた話では、この時期の杜氏さんと蔵子さんの世界はとても厳しい関係が築かれており、杜氏さんには威厳があったといいます。杜氏の“鶴の一声”に蔵子はだれも逆らえず、杜氏が手を出すまでは蔵子はお茶でさえ手を付けなかったほどの緊張感があったそうです。まさに越冨杜氏が受けた印象のとおりだったんですね。


■三代 淋 豊嘉
「現代の名工」として表彰された、当社の誇りともいうべき淋(そそぎ)杜氏です。その匠の技は、叙勲されたことでもわかるとおり、高く評価されました。わたしは叙勲された当時はまだ小さかったので、かすかに覚えている程度。でも、父にとってはいまでもその時のことがはっきりと目に焼き付いているといいます。古酒を残すことを指示されたのも、淋杜氏。「繊月酒造」にとっては恩人ともいえる方です。


■四代 重富武春
重富杜氏は淋杜氏の愛弟子で、昭和28年の入社以来、現在も相談役として焼酎造りのアドバイスをお願いしています。重富杜氏に薫陶を受けた5代目の越冨杜氏は、「厳しい人です。でも、ときどき、ふと優しい声を掛けてくれる。それがうれしくてね。
だから、杜氏を続けられたんだね」と目を細めます。焼酎造りだけでなく、第一線を退いた後も毎年5月の「繊月祭り」にもお手伝いに来ていただいたりと、いつも「繊月酒造」を見守って下さいました。


■五代 越冨 茂


人吉市生まれの越冨杜氏が入社されたのは、昭和59年。重富杜氏の許で当初から製造にたずさわり、副杜氏として5年、杜氏として10年に渡って、この「繊月酒造」でご活躍いただきました。


■六代 馬場 裕次


2008年10月、繊月酒造6代目の杜氏に就任しました。
「とにかく、まずは先代杜氏達の教えや技術をしっかりと守っていくことです。毎日がまだまだ勉強だと考えています。」という答えが返ってきました。
ひたむきにこつこつと努力する杜氏です。



 

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